おうちのねっこ

飯塚市内野に移住。内野の地域に魅せられ、小規模小学校の児童PRの活動や、日々の暮らし、長野おばあちゃんとの手仕事などを綴っています。

「命」を考える。

先週、夫の兄が亡くなりました。
46歳でした。

去年9月頃、
脳梗塞で倒れ入院し、12月に退院。
糖尿病も患っていたため透析にも通っていたそうです。
その透析中に心肺停止。
その日に亡くなりました。
独身だったので
病院でのことで
不幸中の幸いだったと思います。

埼玉在住のため、
次の日には、夫が義母を連れて
埼玉へ。

先週の火曜に行って日曜日に帰ってきました。
市役所での手続き
職場での手続き
住まいの引き払い
車の解約処分
通帳の解約 等々。
あちらで
火葬までして帰ってきました。

それに加えて
部屋の荷物のいる物いらない物の仕分けが
大変だったそうです。

2年単位で転勤があるような職場で
開かずのままの段ボールが何箱もあったそうです。

昨年の3月初めに義父が亡くなり
お葬式で久しぶりに会いました。
口数が少なく
私も何度かしか会ったことがないので
ほとんど会話をしたことはありません。

でも、
夫とはお互い、
強めの言葉でも言い合える普通の兄弟のように見えました。


でも、
糖尿病を患っていることも知らなかった。

確かに
私も実家が離れてて
ほとんど会わないので
いちいち報告とかしないけど。

46歳。
私と同い年。

義父の一周忌と義兄の四十九日が重なる。
義母の気持ちを考えると
自分に置き換えると
夫が亡くなって1年も経たず息子も亡くなるなんて。

 

今回のことと
コロナのこともあって
「命」について
ずっと考えてる。


人の寿命なんて
誰にもわからない。
原因がはっきりしているものもあれば
その日が突然来る時もある。

私だって
まだ子どもが小さいのに
「今、死ぬわけにはいかない」。
でも、それもわからない。
死ぬのが怖くないかといったら
ウソになるかもしれないけど
病気だってなんだって
受け入れるしかない、とも思ってる。
きっと、
見送る側の方が
受け入れるのが難しいような気がする。

 

「子どもがいるから頑張れる」
「夫が信頼してくれてるから安心できる」
というのはある。

でも、
「あなたのために」というのは違うのかなと思ってる。
一見、思いやりのように聞こえるけれど
責任逃れというか
「自分はそうは思わなくても」という含みが感じられる。

「私」がそう思ったから
「私」がそうしたいから


子ども達にも
自分軸をしっかり持って
「今」を精一杯生きてほしい。

私も
「今」できること
楽しめることを
精一杯するから。

義父のときも今回も
一番下の子が
「お母さんもいつか死ぬん?」と
聞いてきた。

「みんないつかは死ぬんよ。
 それはいつかわからんけど。
 やけん、今やりたいことやるんよ。」
って答えてる。

でも、
ニコニコしながら聞いてくるのは何でだろう(^-^;

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